Episode #04 | Capori
私がカポリ先生を初めて見たのは、学術院へ入って一週間も経たない頃でした。犬を連れた老人が、講堂前の楠の大木に向かって何か話しかけていました。肩まで伸びた白髪はひどく乱れ、痩せた身体には大きすぎる上着を着ていました。
その数日後、幾何学入門の講義がありました。教壇に現れたのは、まさしく大木に向かって話しかけていた人物で、その人こそがカポリ先生でした。
先生が開口一番、
「では、前回の続きをやりましょう」
と言うと、教室はさっと静かになりました。
我々は学術院へ入ったばかりでしたから、前回の授業などありませんでした。
しかし先生は気にする様子もなく、黒板の中央にいくつか知らない記号を書き始めました。コホモロジーがどうとか、層がどうとか言っていました。
私は必死で理解しようと途中までノートを取っていましたが、煩雑な可換図式が出てきたところで諦めました。
三十分ほど経ったところで、一人の学生がおそるおそる手を挙げました。
「すみません、よろしいでしょうか」
「何だね」
「この講義は幾何学入門だと思うのですが、これは本当に幾何学入門の内容なのでしょうか」
先生の手が止まりました。
「貴君らは一回生かね?」
「はい」
「ああ、すまない」
先生はしばらく考え込みました。
「では、複素解析もホモロジーも知らないわけだ」
教室を見渡し、やがて私のところで視線を止めました。
「さて、そこの貴君。平均寿命が二マイクロ秒ほどしかない高速の粒子が、十キロメートル先まで飛んで来られると思うかね?」
唐突な質問に、私は、
「分かりません」
と答えることしかできませんでした。
「では、光の速さで考えてみたい。貴君らも承知のように、光速は秒速三十万キロメートルほどだ。仮に光の速さで進んだとしても、二マイクロ秒では六百メートルほどしか進めない。ところが実際はそうならない」
教室の何人かが顔を上げました。
「我々はいまこの瞬間も、宇宙から降り注ぐ粒子を浴びて暮らしている。その中には、ミューオンと呼ばれる寿命の短い粒子がある。単純計算では地表へ到達する前に消滅してしまうはずだが、実際には地表でも観測されている。なぜだと思うかね?」
先生は私の方を見ました。
「分かりません」
私は俯いて答えました。
「そうだろうね。これは決してミューオンだけに起こることではない。我々が長さというものを、少々素朴に考えすぎているのが原因だ」
私は顔を上げました。
「貴君らは、中等学校で三平方の定理を習ったであろう」
何人かが頷きました。
「平面の上では、二点の間の長さをあのように測ることができる。だが、あれが唯一の長さの測り方だと思ってはいけない」
先生は少し間を置きました。
「空間が変われば、長さの測り方も変わる。時間まで含めて考えるなら、なおさらのこと。ミューオンが地表まで届くという話も、結局は同じこと。我々が普段使っている長さや時間の感覚を、そのまま持ち込むことはできない」
そこまで言って、先生は急に黙りました。
「うん、いや、これも一回生にする話ではなかったな」
しばらく黒板を眺めたあと、先生は言いました。
「すまない。次回は多様体論のもう少し簡単なところから始める。予習してきなさい。今日はもう終いだ」
そう言って先生は教室を後にしました。
もっとも、その次の講義も簡単でなかったことは言うまでもありません。