Episode #02 | Elio

椅子に腰掛けてコーヒーを飲む男性のモノクロシルエットイラスト

 オークパドリーの学術院は、紺屋の立ち並ぶ下町にありました。夕方になると、路地に染料を煮立てた香りが漂い、研究室の窓からはその煤けた屋根と細い煙突が並んで見えていました。
 ある晩、外は小雨で、私は机に教科書を広げたまま、雨音混じりのラジオを聴いていました。
「僕には、新しい理論なんて作れない気がする」
 何気なくそう呟くと、エリオは顔を上げました。
「どうして?」
「数多の偉大な結果を前にして、僕みたいな凡人がやれることなんてあるかい?」
「おれたちにだってやれることはある。おれたちみたいな凡人が分野どうしを繋ぐ大道具を生み出すことはできないかもしれないが、その大道具を使って新しいことをやればいい」
 彼は黒板に、二つの丸を描き、その間に一本の矢印を引きました。
「ある分野で定義される不変量や幾何学的対象を、別の分野へマッピングして考える。そうすると、元の場所ではよく知られたものが、別の場所では新しい表情を見せることがある」
 エリオはそういう話をするときだけ、少し楽しそうな顔をしていました。
「新しいものを無から作る必要はない。既にある構造を、別の構造の上で見直すんだ」
「それで新しい理論になるの?」
「なることもあれば、ならないこともある」
 彼はチョークを置いて、少し冷めたコーヒーを口にしました。それから窓際の椅子に腰掛けて、思いついたように別の話を始めました。
「例えば、複素数は二乗して負になる数を許容したところから生まれた。理論の拡張というのは大抵、何かしらの制約を取り払うことなんだ」
「制約を取り払う?」
「そう。これは数ではない、これは長さではない、これは向きではない。そう決めていた境界を少し疑う」
 馬鹿にされるかもしれないと思いつつ、私は小さな声で言いました。
「絶対値を拡張した数はどうだろう」
「絶対値を?」
「うん。当たり前のことだけれども、絶対値は負にならない。でも、負の絶対値とか、複素数の絶対値を持ったものを、数として扱えないかなって」
 自分でも変なことを言ったと思いました。けれどエリオは否定しませんでした。
「面白い」
 その一言だけで、私は少し救われたように思いました。

白黒の手描き風ラインアートで描かれた、数学・統計センターへ続く明るい学校の廊下
 私たちは印刷室の紙をこっそり持ち出して、アイデアを書き留めていきました。数に虚数単位のような要素を付け加える。原点からの距離を、負や複素数の方向へ押し広げる。積については案外上手くいきました。数の積と偏角の和を別々に扱えば、少なくとも形式上は破綻しませんでした。
「ここまでは悪くない」
 エリオが言いました。
「ただし、和が問題だ」
 実際、和を入れようとすると代数構造が保たれず、少しずつ上手くいかない部分が浮き彫りになっていきました。無理に定義しようとすると、都合の悪い元を一箇所に押し込めるような、掃きだめの部分を作らなければなりませんでした。
「環にはならないね。当然、体にもならない」
 エリオが言いました。
「やっぱりだめか」
「だめとは限らない。君が欲しがっているものが単に体や環でないだけだろう」
 エリオは黒板に複素平面を描きました。そのいくつかの点から、垂直に細い線を立てました。
「君のアイデアは、複素平面の各点に数直線が一本ずつ突き刺さっているようなものだと思えばいい。各点にファイバーが乗っていると思えば、別のファイバーどうしの和が意味を持たないことも納得できる」
「それは数なのかな?」
「数ではないかもしれないな」
 エリオはそう言って、おもむろに立ち上がりました。持ち上がった上着の裾からは潮風に晒されたトラウザーのボタンがのぞいていました。
「雨、止まないな」
 エリオはそう言って重く垂れこめる空を見上げるのでした。
 雨の降り続くオークパドリーの路地は暗く、紺屋の軒灯りが川面にぼんやりと滲んでいました。